東京高等裁判所 平成5年(行ケ)23号 判決 1995年2月07日
スイス国
バーゼル 4002.クリベックストラーセ141
原告
チバーガイギアクチェンゲゼルシャフト
同代表者
ワーナーワルデッグ
同訴訟代理人弁理士
岡部正夫
同
臼井伸一
同
藤野育男
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 高島章
同指定代理人
彦形和央
同
市川信郷
同
関口博
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
「特許庁が平成3年審判第18453号事件について平成4年9月24日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
2 被告
主文1、2項と同旨の判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和60年7月26日、名称を「陰イオン染料の溶液」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、1984年7月26日にスイス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して特許出願(昭和60年特許願第164228号)をしたが、平成3年5月31日拒絶査定を受けたので、同年9月30日審判を請求した。特許庁は、この請求を平成3年審判第18453号事件として審理した結果、平成4年9月24日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし(出訴期間として90日附加)、その謄本は同年11月9日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
(1) 陰イオン染料の水性/有機性のまたは純有機性の噴霧染色用染料溶液において、プロピレングリコールの、またはブチレングリコールのC1乃至C4モノアルキルエーテルまたはそのC1乃至C4カルボン酸エステルあるいはこれらの混合物中に溶解された1種またはそれ以上の陰イオン染料を含有し、実質的に無機塩を含有していないことを特徴とする染料溶液。(特許請求の範囲第1項記載のもの。以下「本願第1発明」という。)
(2) 陰イオン染料または陰イオン染料の混合物を、プロピレングリコールーまたはブチレングリコール(C1-C4)-モノアルキルエーテルまたはそれらの(C1-C4)-カルボン酸エステルまたはこれら溶剤の混合物中に10乃至70℃の温度で溶解し、必要な場合にはこの溶液から室温で不溶解部分を除去し、場合によっては、1種またはそれ以上のC1乃至C4グリコール、テトラヒドロフルフリルアルコール、ジアセトンアルコール、陰イオンおよび/または非イオン界面活性剤を添加し、そしてプロピレングリコールーまたはブチレングリコールーモノアルキルエーテルまたはそのエステルおよび/または水を追加することによって所望の着色力に調整することを特徴とする実質的に無機塩を含有していない噴霧染色用染料溶液の製造方法。(特許請求の範囲第8項記載のもの。以下「本願第2発明」という。)
3 審決の理由の要点
(1) 本願第1発明、第2発明の要旨は前項記載のとおりである。
(2) これに対して、西ドイツ特許公開第2633154号明細書(以下「引用例」という。)には、「陰イオン染料がエチレングリコールまたはプロピレングリコールのC1~C4アルキルモノエーテル溶剤に溶解された染色用染料溶液。」が記載されている。
(3) そこで、本願第1発明と引用例に記載された発明とを対比する。
<1> 引用例においては陰イオン染料がプロピレングリコールのC1~C4アルキルエーテル溶剤に溶解された染色用染料溶液が記載されており、この構成は本願第1発明の構成と全く一致している。
そうすると、本願第1発明の染料溶液が噴霧染色用という限定があるのに対し、引用例ではこのような限定がないという点で、両者は一応相違している。
<2> なお、請求人(原告)は、引用例の染料溶液には実施例でかなりの量の無機塩を含有しているから、本願第1発明とこの点でも相違すると主張しているが、仮にそうであるとしても、引用例の発明が実施例に限定されるものでないことは明らかであり、特許請求の範囲ではエチレングリコールまたはプロピレングリコールのC1~C4アルキルエーテルが溶剤として不可欠な構成要件とされており、無機塩の存在が必須構成要件となっていない以上、この請求人の主張は採用できない。
(4) そこで、相違点について検討する。
<1> 染色する方法として、浸染、捺染ばかりでなく噴霧による染色もごく普通の染色方法である。
例えば、皮革等の染色では噴霧することによる染色が広く行われており、周知の染色方法である。〔例えば、日本学術振興会染色加工第120委員会編、染色加工講座6 捺染 共立出版(昭和39年1月15日発行)第7頁参照〕
<2> そうすると、染料溶液で噴霧用と限定したとしても周知の染色方法用としただけのことであって、この限定をもって本願第1発明が特許性を有するものとは認められない。
したがって、本願第1発明は引用例に記載された発明と認められる。
(5) 上述したように、本願第1発明は特許法29条1項3号の規定に該当するから、本願第2発明について検討するまでもなく、本願は拒絶すべきものと認める。
4 審決を取り消すべき事由
審決の理由の要点(1)、(2)は認める。同(3)<1>は認める(但し、審決摘示以外の相違点がある。)。同(3)<2>は争う。同(4)<1>は認める。同(4)<2>、(5)は争う。
審決は、本願第1発明と引用例記載の発明との相違点を看過し、かつ、その摘示する相違点についての判断を誤り、その結果、本願第1発明は引用例に記載された発明と同一であると誤って判断したものであるから、違法として取り消されるべきである。
(1) 相違点の看過(取消事由1)
本願第1発明に係る染料溶液は実質的に無機塩を含有していないものであるのに対し、引用例記載の方法によって製造される染料溶液には無機塩が含まれており、この点において、本願第1発明と引用例記載の発明とは相違しているにもかかわらず、審決は、この相違点を看過したものである。
<1> 引用例に記載されている実施例1の工程は次のとおりである。
(イ) 下記組成の混合物を調製する。
ジエチレングリコールーモノ-n-ブチルーエーテル
1050部
50%苛性ソーダ液 67部(0.8375モル)
85%蟻酸 90部(1.6630モル)
水で湿らせた水酸化クロム(Cr2O330%含有)
127部(Crとして0.50132モル)
(但し、モル値は「部」を「g」で表示したときの計算値である。)
(ロ) 上記混合物中へ1.0モル(322部)のモノアゾ染料を入れ、約110℃の温度で10時間加熱還流する。
(ハ) 室温に冷却後、不純物を濾別する。
上記加熱還流において、混合物中の水酸化クロムは、まず蟻酸又は蟻酸ナトリウムによって蟻酸クロムとして溶解され、次にジエチレングリコールーモノ-n-ブチルーエーテルに溶解されたモノアゾ染料と反応して1:2クロム錯塩染料が生成すると考えられる。
そして、反応終了時の染料溶液中には、下記の成分が含まれている。
ジエチレングリコールーモノ-n-ブチルーエーテル
1050部
1:2クロム錯塩染料 0.5モル
蟻酸ナトリウム 57部
蟻酸及び蟻酸クロム 78.1部
水(水で湿らせた水酸化クロム、 148.9部 50%苛性ソーダ液、85% 蟻酸に含有されるものの合計)
以上のとおり、引用例の方法においては、「部」を「g」で表示すると、過剰のクロム0.00132モル(0.0683g、Cr2O3として約0.1g)が使用され、また、調製された染料溶液には約57gの蟻酸ナトリウムが生成されている。
室温に冷却された反応液からはいくらかの蟻酸ナトリウムが析出してくることも考えられるが、染料溶液中に含まれる水の量、蟻酸ナトリウムの水に対する溶解度、及び引用例には不純物を除去するための特別の処理工程を窺わせる記載がないことからすると、蟻酸ナトリウムは、水との混合溶媒中にそのまま溶解されていると考えられ、上記最終工程(ハ)の濾過によって除去されることはない。過剰の蟻酸クロムも同様に濾過によって除去されることなく、染料溶液中に溶解されている。
したがって、引用例記載の方法によって製造される染料溶液には無機塩が含まれているものというべきである。<2>(イ) 被告は、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは無機塩ではない旨主張しているが、次に述べるとおり理由がないものというべきである。
無機塩とは、狭義には無機酸と無機塩基とからなる塩を意味するが、広義には、それに加えて有機酸と無機塩基とからなる塩を意味し、場合によっては無機酸と有機塩基とからなる塩をも意味するものである。そもそも無機物と有機物とを画する明確な境界が存在しないように、無機塩と有機塩の間には明確な境界は存在せず、ある場合には無機塩と考えることが妥当であり、また別の場合には有機塩と考えることが妥当である領域に存在する塩類がある。
したがって、無機塩の意味は合目的的に解釈されなければならない。
しかして、本願第1発明において無機塩を実質的に含有しないことを必須の要件としているのは、本願第1発明の染料溶液は噴霧染色用のものであるから、噴霧染色に支障を来す物質を含まないことを明確にするためである。噴霧染色に支障を来す物質とは、無機塩の上記広義に包含される塩類のような電解質である。このような点から解釈すれば、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは噴霧染色に支障を来す物質として無機塩に含まれる。一般的にも、蟻酸ナトリウムのような強無機塩基と強有機カルボン酸との塩は無機塩といわれる。また、無機塩は上記狭義のものを意味するものであるとしても、本願第1発明の染料溶液が噴霧染色用であることに鑑みれば、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは明らかに、それらの塩類と等価ないし均等な物質であるから、本願第1発明でいう無機塩の範囲に含まれると解釈しても何の矛盾もない。
(ロ) 被告は、引用例において過剰量のクロム塩を使用することを意図しているとは考えられない旨主張している。
しかし、クロムーアゾ染料の錯塩染料を製造する場合には、アゾ染料に対し化学量論的に少過剰のクロムを使用するのが当業者の常識である。引用例の発明の場合には、クロムはアルカン酸クロムとして溶解されるので、過剰のクロムの除去は行われない。したがって、過剰のクロムの量は可能な限り少量であることが望ましい。そして、引用例の実施例において使用される過剰のクロムの量は、前記のとおり、0.0683gと非常に少量とされているのである。しかし、当業者にとって、この量は、引用例の発明においても少過剰のクロムの使用が意図されていることを理解するために十分な量である。
(2) 相違点の判断の誤り(取消事由2)
本願第1発明の染料溶液を噴霧染色用と限定することには、本願第1発明の特徴を明確にし、本願第1発明の染料溶液と他の染料溶液との差異を明確にする、という重要な意味がある。すなわち、本願第1発明は、上述のとおり、実質的に無機塩を含有していないことをその特徴の一つとして有する染料溶液であり、この特徴及びそれによって得られる効果は、本願第1発明の染料を噴霧染色用と特定することによって一層明確なものとなる。
一方、引用例記載の方法によって製造される濃厚溶液には、相当量の無機塩が含まれていることは明らかであり、その溶液を充填した噴霧器が連続して運転されている場合には大きな支障はないであろうが、一旦運転を中止し、溶液の温度が低下したときに析出する無機塩によってノズルが詰まり、次の運転に支障を来すことが予測される。
このように、無機塩を含まない本願第1発明の染料溶液は噴霧染色用として使用できるのに対して、引用例記載の方法によって製造される、相当量の無機塩を含んでいる染料溶液は噴霧染色用に安心して使用することができないのであって、この点は根本的に異なるものである。
したがって、相違点に対する審決の判断は誤りである。
第3 請求の原因に対する認否及び反論
1 請求の原因1ないし3は認める。同4は争う。審決の認定、判断は正当であって、原告主張の誤りはない。
2 反論
(1) 取消事由1について
<1> 無機塩というのは、無機酸と無機塩基とが反応した食塩とか硫酸ソーダなどを意味するものであるから、蟻酸(これは有機化合物である有機酸の一つである。)と水酸化クロムとが反応した蟻酸クロムは、無機塩ではなく、有機塩(有機酸塩)である。また、蟻酸ナトリウムは、蟻酸(最も代表的な有機酸であるカルボン酸の一つである。)と苛性ソーダとの塩、すなわち有機酸塩であって、無機塩ではない。
原告は、本願第1発明でいう無機塩とは電解質である旨主張するが、本願第1発明の実施態様項である第5項ないし第7項では、電解質である陰イオン界面活性剤を使用するとしているのであるから(本願明細書18頁には、アルカリ金属塩として使用できると記載されている。)、相互に矛盾が生じることになる。
<2> 原告は、引用例の蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは染料溶液中に溶解されている旨主張する。
しかし、例えば実施例1の場合、「10時間加熱還流した。室温に冷却後、不純物を濾別した。」と記載されているように、引用例の方法では反応混合物を冷却すると不純物が析出し、これを濾別しているのであるから、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムも濾別により除去されているのである。
<3> 原告は、引用例の実施例1においては水酸化クロムの使用量が計算上0.0683g(Cr2O3として約0.1g)過剰に使用されているから、この量が染料溶液中に含まれている旨主張する。
しかし、アゾ染料を理論上の当量である0.5モルを反応させたとしても、実際の使用量を詳細かつ厳密に計算すると、どうしてもごくわずか計算上の端数がでてしまうのである。この計算上の端数をもって、クロム化合物を過剰量使用しているという原告の主張は当を得ないものであり、そもそも引用例において過剰量のクロム塩を使用することを意図しているとは考えられない。
仮に、クロム化合物0.0683g(Cr2O3として約0.1g)が染料溶液にそのまま含まれていると仮定しても、クロム染料348g(アゾ染料1モル=322gとクロム0.5モル=26g)中には
0.1÷348×100=0.02872%
のクロム化合物が含まれているだけであり、これに溶媒などの存在を考慮すれば、この含有量よりはるかに少ないものである。
<4> 以上のとおり、引用例記載の方法によって製造される染料溶液には実質的に無機塩が含まれていないものというべきであって、この点に本願第1発明との相違はなく、審決に原告主張の相違点の看過はない。
(2) 取消事由2について
すでに述べたように、引用例の方法で製造された染料溶液も、本願第1発明の染料溶液と同様に、実質的に無機塩を含有していないのであるから、相違点の判断の誤りをいう原告の主張はその根拠を欠くものである。
そして、本願第1発明は噴霧染色用の染料溶液と限定しても、結局周知の染色方法用のものとしただけのことであるから、相違点についての審決の判断に誤りはない。
第4 証拠
本件記録中の書証目録記載のとおりであって、書証の成立はいずれも当事者間に争いがない。
理由
1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願第1発明、第2発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。
そして、引用例には「陰イオン染料がエチレングリコールまたはプロピレングリコールのC1~C4アルキルモノエーテル溶剤に溶解された染色用染料溶液。」が記載されており、陰イオン染料がプロピレングリコールのC1~C4アルキルエーテル溶剤に溶解された染色用染料溶液という構成は本願第1発明の構成と一致していること、及び、本願第1発明の染料溶液は噴霧染色用という限定があるのに対し、引用例のものではこのような限定がない点で両者は一応相違していることは、当事者間に争いがない。
2 取消事由1について
(1) 甲第3号証(引用例)によれば、引用例記載の発明の特許請求の範囲第1項は、「スルフォン酸基を含まないo、o’-ジヒドロキシまたはo、o’-ヒドロキシカルボキシ1:2クロム錯塩化合物の濃厚溶液の製造方法であって、金属を含まない前記錯塩化合物に相当するアゾ化合物を有機溶媒中、高温及び弱酸性のpH値に於て、3価のクロム化合物でクロム化する方法において、3価のクロム化合物としての水酸化クロム、アルカリ液、および過剰のC1-C3アルカン酸からその場で生成した反応生成物および溶媒として式Ⅰ
<省略>
(式中、R1は水素又はC1-C4アルキル、R2は水素又はメチルそしてnは1、2又は3を意味する。)の化合物を使用し、そして場合によってはクロム化の後でカルボン酸アミドを加えることを特徴とする方法。」というものであって、無機塩の存在は必須の構成要件とはなっていないことが認められる。
ところで、甲第3号証によれば、引用例の発明の詳細な説明の項には、実施例1として、「ジアゾ化した1-アミノベンゼン-2-カルボン酸と1-フェニル-3-メチルピラゾロン-5から得られた1.0モルのモノアゾ染料を、1050部のジエチレングリコールーモノ-n-ブチルーエーテル、67部の苛性ソーダ液(50%)、90部の蟻酸(85%)及び127部の水で湿らせた水酸化クロム(Ⅲ)(Cr2O3 30%含有)の混合物中に入れた。引き続いて、10時間加熱還流した(温度約110℃)。室温に冷却後、不純物を濾別した。この様にして得られた溶液は羊毛、ポリアミド又は皮革を黄色の色調に染色する。」(訳文第3頁末行ないし第4頁7行)と記載されていることが認められるところ(なお、計算上、上記モノアゾ染料1.0モルは322g、50%苛性ソーダ67gは0.8375モル、85%蟻酸90gは1.6630モル、水で湿らせた水酸化クロム(酸化クロム30%含有)127gはCrとして0.50132モルとなる。)、引用例中の「本発明の方法は以下の様に都合よく実施される。即ち、金属を含まないアゾ染料、含水した水酸化クロム、アルカリ液及びアルカン酸をクロマトグラフで完全にクロム化完了が確認されるまで式Ⅰの溶媒中で加熱する。」(訳文第3頁17行ないし19行)との記載によれば、引用例記載の方法では上記のとおり完全にクロム化しているものと認められるから、反応終了時の染料溶液中には、下記の成分が含まれているものと認められる。
ジエチレングリコールーモノ-n-ブチルエーテル
1050g
1:2クロム錯塩染料 0.5モル
蟻酸ナトリウム 57g
蟻酸及び蟻酸クロム 78.1g
水(水で湿らせた水酸化クロム、 148.9g 50%苛性ソーダ液、85% 蟻酸に含有されるものの合計)
しかして、上記のとおり、実施例1では、モノアゾ染料1モルから、1:2錯塩染料0.5モルを生成させるためには、0.5モルの水酸化クロムが消費されるから、反応終了時には、その染料溶液中に0.00132モル(0.0683g)のクロムが蟻酸クロムとして残存していることになる。また、蟻酸ナトリウムの生成量は57gである。
(2) そこで、蟻酸クロム及び蟻酸ナトリウムが、本願第1発明において実質的に含有していないとされる「無機塩」に該当するか否かについて検討する。
<1> 乙第1号証(化学大辞典編集委員会編「化学大辞典9」)及び第2号証(同委員会編「化学大辞典2」)(いずれも共立出版株式会社昭和49年3月10日第16刷発行)によれば、蟻酸は有機酸であるカルボン酸の一つであることが認められるから、蟻酸クロム及び蟻酸ナトリウムはいずれも、有機酸と無機塩基との反応により生成される塩であるということができる。
<2> 一般に、無機酸と無機塩基との塩が無機塩と称されることは、当事者間に争いがない。
そして、菱山衡平著「近世染色学」(昭和27年11月30日株式会社技報堂発行、乙第3号証)の第169頁には「食塩或いは硫酸ソーダのような無機塩」、繊維学会編「化繊便覧」(昭和33年4月10日丸善株式会社第4版発行、乙第4号証)の277頁には「亜硫酸ソーダのような中性に近い無機塩」と、いずれも無機酸と無機塩基との塩が無機塩として記載されており、無機塩といえば、通常は無機酸と無機塩基との塩を指すものとして理解されているものとも認められるが、本件訴訟手続においては、無機塩を定義づけ、あるいはその技術的性質ないし内容を明確に記述した文献は提出されていないか、上記各文献の記載のみから、無機塩は無機酸と無機塩基との塩に限られるものと即断することは、必ずしも相当ではない。
<3> 上記のとおりの事情もあって、本願第1発明において実質的に含有していないとされる「無機塩」の意義は、その特許請求の範囲の記載自体から一義的に明確であるとはいえず、また、本願明細書(甲第2号証)の発明の詳細な説明においても、本願第1発明でいう無機塩がどのようなものであるかということについての明確な説明はなされていない。
ところで、本願明細書の発明の詳細な説明の項には、本願第1発明の目的につき、「本発明の目的は貯蔵安定な、すなわち、+40℃から-10℃までの温度範囲において数ケ月以上にわたって問題なく保存でき、かつ困難なく噴霧法で使用出来るような十分に高い揮発性溶剤を含有している陰イオン染料の溶液を提供することである。更にまた、使用時に使用法に応じて水性溶液、水性/有機性溶液あるいはまた純有機溶液の形態に容易に溶解できる新規な染料溶液を提供することも本発明の目的である。」(第7頁18行ないし第8頁7行)と記載され、本願第1発明の溶液染料の製造方法、及び同染料の効果につき、「本発明による染料溶液を製造するためには、まず最初に、陰イオン染料または染料混合物をプロピレングリコールーまたはブチレングリコールー(C1-C4)-モノアルキルエーテルまたはそのC1乃至C4カルボン酸エステルまたはそれらの溶剤の混合物中に、10乃至70℃の温度で溶解する。この溶液冷却後、沈殿または不溶解物が存在した場合には、それを例えばろ過、超遠心分離または簡単に傾瀉によって分離除去する。次に、溶液に場合によってはさらに上記に説明した添加物を加え、そしてプロピレングリコールーまたはブチレングリコールモノアルキルエーテルまたはそのエステルおよび/または水を追加して所望の着色力に調製する。染料は最初は有機溶剤にのみ溶解されているから、不溶解物、特に染料合成段階から不純物として持ち込まれた無機塩類は容易にかつ殆ど完全に分離除去することが可能である。このことは最終的に仕上がった染料溶液の貯蔵性の点から極めて重要である。塩類を含有している染料溶液は塩類を殆どまたは全く含有していない溶液よりも再結晶および凝集の傾向が実質的に強い。もちろん、染料は塩を含有している粗製染料の形態たとえば乾燥したまたは高湿分のプレスケーキの形でも、あるいは精製染料粉末または水性染料溶液の形でも使用できる。染料水溶液から出発する場合には膜分離たとえば限外ろ過(Ultrafiltration または Hyperfiltration)によって予め脱塩しておくことが望ましい。本発明による染料溶液は低粘度の貯蔵安定な濃厚原液であり、使用の際には簡単に問題なく有機染液、水性/有機染液または純水性染液とすることができる。本発明による液体染料製剤は噴霧溶液の調製のために適当であるばかりでなく、パッド染色液、染浴あるいは捺染のりの調製のためにも適当である。」(第22頁8行ないし第24頁5行)と記載されていることが認められる。
<4> 上記のとおり、本願第1発明において実質的に含有していないとされる無機塩は不溶解物であって、染料合成段階から不純物として持ち込まれているものであるところ、本願明細書において、上記のような意味合いでの無機塩として具体的に記載されているものは、実施例1及び8の原料粗製染料に含まれている食塩(無機酸と無機塩基との塩)だけであって、有機酸と無機塩基との塩については何ら記載されていないこと、及び、本願第1発明の染料溶液中に含有される金属錯塩型の陰イオン染料(本願明細書第9頁7行ないし19行)、本願第1発明において均整染色のために界面活性剤として使用できるとされているペルフルオロオクタンスルホン酸のアルカリ金属塩またはアンモニウム塩(同明細書第18頁11行ないし14行)は、いずれも有機酸と無機塩基との塩であるから、原告が主張するように無機塩には有機酸と無機塩基との塩も含まれるとすると、実質的に無機塩を含有していないとする、本願第1発明の特許請求の範囲の記載と矛盾することになることからすると、本願第1発明において実質的に含有していないとされる無機塩は無機酸と無機塩基との反応により生成される塩を意味するものと解するのが相当である。
したがって、引用例記載の方法において製造される染料溶液中にある前記蟻酸クロム及び蟻酸ナトリウムは、本願第1発明でいう無機塩に該当しないものというべきである。
<5> 原告は、本願第1発明において無機塩を実質的に含有しないことを必須要件としているのは、噴霧染色に支障を来す物質を含まないことを明確にするためであって、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは噴霧染色に支障を来す物質として無機塩に含まれる旨主張する。
本願第1発明は前記<3>に認定のとおりの目的・効果を有し、また、本願明細書には「染料は最初は有機溶剤にのみ溶解されているから、不溶解物、特に染料合成段階から不純物として持ち込まれた無機塩類は容易にかつ殆ど完全に分離除去することが可能である。このことは最終的に仕上がった染料溶液の貯蔵性の点から極めて重要である。塩類を含有している染料溶液は塩類を殆どまたは全く含有していない溶液よりも再結晶および凝集の傾向が実質的に強い。」と記載されているように、本願第1発明においては、貯蔵性の点などから無機塩を分離除去の対象としているものであるが、そのことから当然に、本願明細書が、有機酸と無機塩基との塩も、貯蔵性なり噴霧染色に支障を来す物質として無機塩に含ましめているものと解することはできず、原告の上記主張は採用できない。
また原告は、一般的にも、蟻酸ナトリウムのような強無機塩基と強有機カルボン酸との塩は無機塩といわれる旨主張するが、この主張を裏付けるに足りる証拠はない。
なお、「Handbook of Chemistry and Physics 51版」(乙第5号証)中の「無機化合物の物理定数」との表題の箇所には、有機酸と無機塩基との塩である蟻酸ナトリウムや酢酸ナトリウムが掲載されているが(蟻酸ナトリウムについては、同上53版(甲第8号証)も同じ)、無機化合物が無機塩と同義のものであると認めるべき証拠はないし、また、上記表題の箇所中のナトリウム化合物の項目にはナトリウム塩が一括して掲載されているにすぎないことが認められるから、上記掲載の事実をもって、原告の上記主張を裏付けるものということはできない。
さらに原告は、無機塩は無機酸と無機塩基との塩を意味するものであるとしても、本願第1発明の染料溶液が噴霧染色用であることに鑑みれば、蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムは明らかに、それらの塩類と等価ないし均等な物質であるから、本願第1発明でいう無機塩の範囲に含まれると解釈しても矛盾はない旨主張するが、本願第1発明において実質的に含有していないものと規定される無機塩は、無機酸と無機塩基との塩に限定されるものと解釈される以上、本願第1発明の染料溶液が噴霧染色用であることの故に当然に、有機酸と無機塩基との塩である蟻酸クロムや蟻酸ナトリウムまでが、上記無機塩と等価ないし均等なものということはできないのであって、上記主張は採用できない。
(3) なお付言するに、引用例の実施例1において染料溶液中に残存する0.00132モルのクロムは原料として供給されたクロムの約0.26%(0.00132÷0.50312×100)にすぎず、染料溶液全体に占める蟻酸クロムの量は実質的に無視しうる程度のものであると認められる。
(4) 以上のとおりであって、引用例記載の方法によって製造される染料溶液には、本願第1発明でいう無機塩が含まれているとはいえず、取消事由1は理由がない。
3 取消事由2について
(1) 染色する方法として、浸染、捺染ばかりでなく噴霧による染色もごく普通の染色方法であること、皮革等の染色では噴霧することによる染色が広く行われており、周知の染色方法であることは、当事者間に争いがない。
そうすると、本願第1発明において、染料溶液で噴霧用と限定したことは周知の染色方法用としただけのことであって何ら格別のものということはできない。
したがって、相違点に対する審決の判断に誤りはない。
(2) 原告は、無機塩を含まない本願第1発明の染料溶液は噴霧染色用に使用できるのに対して、引用例記載の方法によって製造される、相当量の無機塩を含んでいる染料溶液は噴霧染色用に安心して使用することができないという点で根本的に相違する旨主張する。
しかし、引用例記載の方法で製造された染料溶液も、本願第1発明の染料溶液と同様に実質的に無機塩を含有していないのであるから、原告の主張はその根拠を欠くものであって失当であり、取消事由2は理由がない。
4 以上のとおりであって、原告主張の取消事由はいずれも理由がなく、審決に原告主張の違法はない。
よって、原告の本訴請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間の定めについて、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条2項を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 濵崎浩一 裁判官 押切瞳)